中途半端に哲学好きな社会不適合者のブログ

日々調べたこと、考えたことの備忘録

「権威付けのための一般論」という暴力

3日に一回くらいブログ書こうと思ったのに、本当に久々の更新になりました。。。

転職して暇すぎる業務の最中に考えていたものでも書いていきますー

 

失敗したっていいじゃない人間だもの。

 

 

あいだみつおは人間という哲学者でも曖昧に定義づけせざるをえない人間というものについて、失敗を当たり前の特性と捉え誰にでもあることだから失敗など気にすることではないと許容範囲の拡大を求めている。あいだみつおの名前が世で有名になっていくにつれて、この句を中心にあいだみつおの詩は存在する市民権を得つつある。詩人たちは今まで言語化されてこなかった(しなかった)感情や感性をきれいな言葉で包むことで世間から一定の評価を得ていく。そこには、はた目から見て爽快感があり、自身の中の感情を他人が作ったきれいな模造紙にくるみ自分という感情を作っていく。そんな偽物と本物とは何かという、卵が先か鶏が先かという議論はいったんおいておくが、一般に流布した曖昧な情報を自身の中でこねくり回し具体と抽象をとびまわる偶像を作り上げ、他人に対してもその観念を押し付けることが往々にしてあるのではないかと最近思っている。(うちの職場だけかもしれないが。)

 

 「ほかの会社では当たり前にやっていることなのに、うちの会社でやらないのはおかしいだろー!!!!!」

とあるトラブルがあった際に私の上司が真っ先に言った言葉である。簡易化すると、みんなやっているのだから、自分がそれに倣わないのは罪だ。こういうわけである。果たしてそうだろうか。そもそものほかの会社でやっていることという、「ほかの会社」が数多ある会社の何件のうちからサンプリングしたものなのかも疑問であるし、業態や人材等の構成要素が違うものを一括りにまとめ安易に単純化するのは大変危険なことなのではないだろうか。一つ一つの問題が違ければそれに対するアプローチは酷似することはあるだろうが、解が同一になることはなかろう。にもかかわらず、自身の知っているごく一部の経験則から架空の武器を作り上げ、外見だけ立派なナイフを振りかざす。これはただの癇癪でしかない。こういった背景のデータ元が弱いにもかかわらず、言葉だけで外面を取り繕いあたかも歴戦を共にした刃として議論の場に持ち出すのはいかがなものなのかと常々思っている。自らの問題に適切な問題解決手法を考えるのではなく、自ら癇癪をおこしそれをショートカットしているようにも思えるからだ。そのことに気づいておらず、安易な問題解決を進めるのは簡単だろう       しかしそれは立場に裏打ちされた虚飾のものに過ぎない。全体がどう動いているか世間の潮流がどうなっているかを考慮しなくてはいけないのは、これからの未来の戦略を決めることである。過去から引きずる問題に対して、過去の事例を自慢げに振りかざし自分の意見を押し通し続けるのは子供の癇癪以外のなんと表せばいいのだろう。

 

 私たちはこうした時に、どのような振る舞いが求められるだろうか。この上司を批判して「そんなのうちの会社で必ずしもああ領収証前になる必要ないでしょ?」と食ってかかればいいのか。

 

時間の無駄

 そんなことしても時間の無駄なので、構造的に上司が言っているのが正しいのかどうか自分で考えて、心の中で見下しておきましょう。こんなことに時間とるくらいだったら、次にするアクションを考えて、理論武装してつぶしにいくのでもよし。身体を徹底的に鍛えて威圧感を与えるのもよし。格闘技を習って致命傷を与えるのもよし。次にすることを考えていくのが吉でしょう。私は筋トレ始めました。