中途半端に哲学好きな社会不適合者のブログ

日々調べたこと、考えたことの備忘録

伊藤計畫PROJECT3作品を見終わって思ったこと

初めての記事です!

伊藤計畫PROJECT“屍者の帝国”・“ハーモニー”、“虐殺器官”の3作品を、原作及び映像で見たことで今思うことを記録に残します。34歳という若さで亡くなった伊藤計畫がこの世の中をどう感じていたのか。それを考察することで何か見えてくるものがあると思ったからです。

今回は特に伊藤計畫が自身で書き上げた『虐殺器官』と『ハーモニー』にスポットを当て感じたことを書き連ねていきます。

 


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物語を考察することで想像力は広がる

「世界にはこんなに面白いことがあるんだよ、こういう世界を想像することで、自分たちの世界について色々思いを馳せるのは面白いことなんだよ」

『伊藤計畫録Ⅰ』にて紹介されている伊藤計畫がこの世に残した言葉。この言葉がSF文学に関してとても重要な示唆を含んでいるように私は思います。

もしかしたらこんなこと当たり前だと思う人もいると思いますが、当時、純文学やミステリーにしか興味を示さなかった私からすると、正直SF小説は作者の想像を垂れ流すだけの文字列としか思っていませんでした。

伊藤計畫を読破した直後の、頭をガツンと叩かれたようとはこのことか!!と今となっては恥ずかしいことです…

 

 

真っ先に思い浮かんだドラえもんの存在

ドラえもんといえば日本人の10割弱が知っている藤子不二雄の描く、未来からやってきた自称猫型ロボットとドジっ子眼鏡少年が主人公の、日本で最も有名なSF漫画の金字塔ともいうべきものですね。未来からやってきたドラえもんが出す不思議な道具を使う物語は老若男女問わず楽しめる作品です。

なぜ伊藤計畫作品を読んでドラえもんが思い浮かんだか。それは、既にある現実だけに目を向けて自分の思考に「枠」を形成してしまうのではなく、仮想世界に思いをはせることで自分の中の世界は広がりを見せていく。このことがドラえもんを楽しく見ることができる根源にあるものと同じだと、私は感じたからです。

 

先に書いた現実と違う世界を想像して思いを馳せ、自身の想像力が拡張されることで楽しめる作品になっていると思いました。

 

 

 

SFに思いをはせることは、文学に通ずる

 

私は純文学の機能の1つは、他人を認識する際に外見・レッテルだけで判断するのではなく、相手側の背景にどんな物語があるのか汲み取ることが必要であるという示唆だと考えています。そのためには、相手側のバックグラウンドに想像力を膨らまし自分以外の価値観が存在することを理解し共感するというタスクが課されることになります。その力を養うのは文学の役目であると本を読み始めてから考えるようになりました。

純文学が自分以外の人間の心情に思いをはせるのに対し、SF(ここでは伊藤計劃作品を想定)は自分とは違う世界のことに思いを馳せています。この二つの共通点は自分だけをブラッシュアップするだけでは気づくことができない暗示を、外部のフィルターを介して自分の意識できるところまで落とし込みができることだと感じています。構造的には同じ形で自身の想像力を膨らませていくことができるこの在り方は大変衝撃的なものでした。

そして伊藤計劃の著書は自身の描きたい主張と物語のディテールを、分かりやすくつなぎ合わせることができたためSFのなかで『伊藤計劃後の世界』などが書かれるほど影響を与えたターニングポイントとなったのかもしれません。

 

SFという現代とは全く違う仮想未来から、こんなにも人の幸せや理性・非理性を考えさせれれるとは思ってもいませんでした。私たち個々人の意識は・非理性は本当に必要なのか、もしくは不必要なのか。現実に準拠していないからこそ、私たちはその想像の幅を広げられるのかもしれないですね。