中途半端に哲学好きな社会不適合者のブログ

日々調べたこと、考えたことの備忘録

入社3年以内に辞めると地獄は本当か

こんにちはクラップです。

なぜか書いていた記事を公開していなかったので、公開します!

 

昨年、会社を辞める前に書いていた記事のようです。

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入社して一年足らずで今の会社を辞めようとしています。辞めることを上司に相談した折、“3年は勤めないと良し悪しなんてわかんないし、転職もきついよ。”と言われました。

両親からも“3年は勤めなきゃ転職は厳しいらしいよ。”とありがたい言葉を頂きました。

 

「え?それ本当なの?もう転職先も決まってるんだけど…」

 

そんなことから、世間に蔓延る「新卒入社は最低3年は働くべき」って言葉をもう一度考え直してみようと思いました。

 

「新卒は最低3年勤めろ」という理由

最低3年以上努めるべきというのは3つ理由があると考えます。

①採用コストをかけた新卒が早く辞めないようにするため。

②今までかけたコスト分は新卒が賄えるようにするため

③精神的なバイアスをかけておくことで、辞めるのを躊躇させるため。

 

上記のようなものがあると考えます。

要するにせっかく入ってきた搾取すべき駒を早々に手放さないようにするためです。

企業側の採用活動も何のコストもかかっていないわけはありません。それなりの時間的・人的コストをかけて毎年の採用活動を行なっています。

折角苦労して集めた新卒採用者が、すぐに辞めていったら採用するまでにかかったコスト・採用してから利益を生まない新人に払う賃金が全て無駄になってしまいます。

特に日本の新卒採用は入社してから会社で育成していく体制をとる会社が多いため、最初の3年ほぼほぼ新人が利益を上げることを期待していない会社があるのも事実です。

そんな折、新卒社員がすぐに辞めてしまったら。。。

そんな会社が多いことが幸か不幸か、同調圧力となり「3年は働かなければいけない」という私たちが耳にタコができるほど聞かせれている、もはや呪いになっているのではないでしょうか。

 

新卒入社で3年働くことのデメリット

 

 前提として、自分の能力に合わない。主義主張に合わない。などの会社に入社してしまい、自分と会社のマッチングを間違えてしまった新卒をここでは対象にします。

  私や周囲の新卒退職者の経験上、その会社で働き続ける方が地獄だと思います。というより断言できます。

 皆さんは今まで大学まで教育を受けていていますが、その中で得意科目を取組むときは楽しく、苦手科目を勉強するときはそれが理解できるまで辛かったという経験はありませんか。今まではあくまで自己責任なので、自分が割り切ってしまえば周りから揶揄する声があろうと気にしなければ何も問題ありませんでした。

 しかし、会社で自分に合わない会社で働くことで待っているのは、とてつもない精神的苦痛です。自分の会社に対する知識も少ないまま、営業職であれば外に放り出され、事務職であれば延々と電話対応や事務作業に追われたりします。その中で業務を覚えていくこともあるでしょうが、自分に合わないその会社でしか使わないような知識をため込むことが少なくとも私は苦痛でなりませんでした。そんなつまらない勉強を他者から強要され結果が出なければ怒られるという苦難の道のりが待っています。ずっと苦手科目を得意科目になるまで怒られ続ける日が続きます。

 3年働くことでこの業務知識が乏しくできる仕事が少ないという状況を抜け出すことが出来るかもしれませんが、私はお勧めしません。というのも、自分がモチベーション低く仕事している間にも、志持った同期や後輩がどんどん頭角を顕し始めます。

 さらに3年働いたことで、最大のデメリットとなるのは「第二新卒」扱いでなくなることです。

  世間で言われる「3年働け!」というのは、こういう企業側の策略だと考えられるのではないでしょうか。

 かくいう私も、第二新卒として次の転職先が決まっていますが、現在の新卒と同じ面接を受けました。調べてみると第二新卒でも応募可能な企業は多くあり、2度目の就職活動という点もありそれほど不利に感じず転職活動を進めることができたと思います。

 

つらい思いを耐えながらその場で頑張り続けることも立派ではあると思いますが、できるならば自分が活躍できたり精神状態が良好な場所で成長できる場所へ自分が一歩踏み出してみるのを私は勧めます。こと第二新卒での転職であれば、逃げるも恥じゃなければ役に立つと私は思います。

「権威付けのための一般論」という暴力

3日に一回くらいブログ書こうと思ったのに、本当に久々の更新になりました。。。

転職して暇すぎる業務の最中に考えていたものでも書いていきますー

 

失敗したっていいじゃない人間だもの。

 

 

あいだみつおは人間という哲学者でも曖昧に定義づけせざるをえない人間というものについて、失敗を当たり前の特性と捉え誰にでもあることだから失敗など気にすることではないと許容範囲の拡大を求めている。あいだみつおの名前が世で有名になっていくにつれて、この句を中心にあいだみつおの詩は存在する市民権を得つつある。詩人たちは今まで言語化されてこなかった(しなかった)感情や感性をきれいな言葉で包むことで世間から一定の評価を得ていく。そこには、はた目から見て爽快感があり、自身の中の感情を他人が作ったきれいな模造紙にくるみ自分という感情を作っていく。そんな偽物と本物とは何かという、卵が先か鶏が先かという議論はいったんおいておくが、一般に流布した曖昧な情報を自身の中でこねくり回し具体と抽象をとびまわる偶像を作り上げ、他人に対してもその観念を押し付けることが往々にしてあるのではないかと最近思っている。(うちの職場だけかもしれないが。)

 

 「ほかの会社では当たり前にやっていることなのに、うちの会社でやらないのはおかしいだろー!!!!!」

とあるトラブルがあった際に私の上司が真っ先に言った言葉である。簡易化すると、みんなやっているのだから、自分がそれに倣わないのは罪だ。こういうわけである。果たしてそうだろうか。そもそものほかの会社でやっていることという、「ほかの会社」が数多ある会社の何件のうちからサンプリングしたものなのかも疑問であるし、業態や人材等の構成要素が違うものを一括りにまとめ安易に単純化するのは大変危険なことなのではないだろうか。一つ一つの問題が違ければそれに対するアプローチは酷似することはあるだろうが、解が同一になることはなかろう。にもかかわらず、自身の知っているごく一部の経験則から架空の武器を作り上げ、外見だけ立派なナイフを振りかざす。これはただの癇癪でしかない。こういった背景のデータ元が弱いにもかかわらず、言葉だけで外面を取り繕いあたかも歴戦を共にした刃として議論の場に持ち出すのはいかがなものなのかと常々思っている。自らの問題に適切な問題解決手法を考えるのではなく、自ら癇癪をおこしそれをショートカットしているようにも思えるからだ。そのことに気づいておらず、安易な問題解決を進めるのは簡単だろう       しかしそれは立場に裏打ちされた虚飾のものに過ぎない。全体がどう動いているか世間の潮流がどうなっているかを考慮しなくてはいけないのは、これからの未来の戦略を決めることである。過去から引きずる問題に対して、過去の事例を自慢げに振りかざし自分の意見を押し通し続けるのは子供の癇癪以外のなんと表せばいいのだろう。

 

 私たちはこうした時に、どのような振る舞いが求められるだろうか。この上司を批判して「そんなのうちの会社で必ずしもああ領収証前になる必要ないでしょ?」と食ってかかればいいのか。

 

時間の無駄

 そんなことしても時間の無駄なので、構造的に上司が言っているのが正しいのかどうか自分で考えて、心の中で見下しておきましょう。こんなことに時間とるくらいだったら、次にするアクションを考えて、理論武装してつぶしにいくのでもよし。身体を徹底的に鍛えて威圧感を与えるのもよし。格闘技を習って致命傷を与えるのもよし。次にすることを考えていくのが吉でしょう。私は筋トレ始めました。

飛込み営業するなら喫茶店で勉強したい

大手金融関係の会社に入社して2か月目。新規開拓のために飛込み営業研修が始まりました。中小企業を中心とした法人営業が始まります。
その時の状況を振り返りながら、飛込み営業は意味のある行為なのかを考えていこうと思います。

飛込み営業をさせる会社の意図
説明会・研修期間で「うちは1年目は飛込み営業の研修があるよ。でもそのあとはほとんど飛込営業はないから。」
と聞かされていた入社直後。ついに始まった新人からしたら地獄とも感じる期間。会社側はどんな意図をもって、飛込み営業をさせるのでしょうか。
会社の方針・人事・上司から聞いた方針から下記のものがあると考えます。

①新入社員の度胸をつけるため
②大企業となった背景には先人が培った飛込み営業があり、それは大変なものだったと新人に伝える意図
③収益を生む現営業社員の時間を新人に割くのは無駄
④時代錯誤の飛込み営業でも契約まで漕ぎ着けるラッキーケースがある

①②は人事、役員が新人へこの意図があることを仄めかしていました。
ですが本当の根底にあるのは③と④でしょう。
要するに一応の新人養成の体をとりながら、それほどコストをかけずに営業社員の育成・あわよくば会社の利益へのプラスを目的としているのではないでしょうか。
特に④などは、実感ベースで100件訪問して1件のような低打率にはなりますが、私のようにやる気のない営業でもけいやくがとれたりします。

飛び込み営業は無意味
入社2ヶ月目から今まで飛び込み営業をやってきた私の結論は「半端な知識しか持たない新入社員の飛び込み営業は無意味」というところに落ち着いています。
(飛び込み営業は最初の半年間だけと聞かされていましたが、この記事を書いている翌年2月現在も飛び込み営業は続いています。社会は嘘と欺瞞に溢れているのが知れて良い経験になりました。死)
1年弱しかやってないぺーぺーが何言ってやがると思う方も少なからずいるでしょう。
しかしこれだけ情報が溢れている社会で飛び込み営業の存在意義の方に疑問を感じます。

だって自分が本当に必要な商品・サービスだったらネットで調べるでしょう?そこで比較検討も行うでしょ?

確かに昔は情報社会が発達していなかった背景もあり、(興味があるなしに関わらず)知らない情報が持ち込まれうる飛び込み営業に意義みたいなものがありました。

しかし、時代は変わり、いまや知りたい情報は簡単にアクセスできるネット上に溢れかえっています。そんな状況で「半端な知識しか持たない突然の来訪者」を誰が必要とするんでしょう?

自分の家にノンアポで知らない人がやってきたら警戒して居留守なんかも使ったりしますよね。
気が変わって対応してみたら、この商品買いませんかとその場で他社と比較検討できないものを売り付けようとしてくる。
はっきりいって迷惑行為に他ならないと思うのです。

労働生産性の評価が重視されてきた昨今において、貴重な労力と賃金をどう使えばいいのか飛び込み営業する時間で考えさせればいいのにと思います。

入社1年目。営業職を退社する今思うこと。

私は新卒入社した会社を来月の3月いっぱいで退職する予定となっています。
日本の大手企業に属する会社に入社したものの、何故退職するに至ったのかここで振り返っていこうと思います。

就活期
私は金融分野の会社に入社した絞って就職活動をしていました。理由は、ヒト・モノ・カネで回っている社会基盤の中でカネの部分が社会に与える影響が大きいと考えたからです。

というのが表向きな理由。
本当は、①シンプルにお金が好きだったこと②金融の会社にいけば自分の今後の資産形成の勉強が無料できる③色んな業種の人の話を聞く機会がある

特に③の理由が一番強かったように思います。

要するに、何もやりたいことなんかないからとりあえず潰しの効きそうな金融に入っとけばいいんじゃねー?その中で自分の本当にやりたいことを探していけばいいよねー
という短絡的な理由です。本当に何も考えていないアホです。

そして所謂、大企業という分野に属する会社の内定を頂いたのが今の会社です。
名前を言えば誰もが耳にしたことがあるような会社です。

そして入社。
入ってみれば自分がどれだけ甘い考えを持っていたのか知ることになりました。

合同研修期間を終え関東圏の部署に配属になりました。
そこで待っていたのは、就活期及び研修期に全く聞かされていなかった仕事をする部署でした。
詳しくは言えませんが、特定の業種を専門として営業をかけていく部署へ配属となったのです。

そりゃ、自分のやりたい仕事なんかほぼほぼ就けないのは覚悟していました。
(そんな説明1つも聞いてないんだが…)
説明会で全く聞かされていない仕事をしなければならない状況など想像もしていません。

そしてなにより、特定の業種を担当することで“色んな業種の人の話を聞く”という目的が早々に失われてしまいました。

とはいえ、金融は異動の多い職種です。何の気なしに先輩社員にお話を聞いてみます

私「金融って異動多いんで、“多業種に関わる”仕事に変わったりしますよねー?」
先輩「この部署に配属されたらずっと“特定業種”を定年までやるのが普通だよー。おれもそうだしー。」

なん…だと…
配属されてすぐにそんな事を聞かされモチベーションはものすごい下がります。
自分の軸と思っていた多業種と関わることができるメリットが享受されないのが確定したわけですから。
真綿の縄を首にかけたのは思えばこの時だったのでしょう。ここから自分の首をジワジワと絞めていくことになります。

ここから下に関してはまた別の機会に書いていこうと思います。

旧態依然とした日本企業
パワハラセクハラ当たり前
長時間労働。生産性皆無。
日本が衰退。それでもよくね?


営業とは詐欺まがい?

営業職としての入社でまず覚えるのは自社商材のことです。この時は必死で覚えましたとも。
そして段々業界のことを知っていく…
あれ?ウチの商材って時代遅れじゃないですか…?
これをこの値段設定にするって情報弱者しか買わなくないですか…?
日々疑問は増えていく毎日です。そんな商材にももちろんノルマが課されて

伊藤計畫PROJECT3作品を見終わって思ったこと

初めての記事です!

伊藤計畫PROJECT“屍者の帝国”・“ハーモニー”、“虐殺器官”の3作品を、原作及び映像で見たことで今思うことを記録に残します。34歳という若さで亡くなった伊藤計畫がこの世の中をどう感じていたのか。それを考察することで何か見えてくるものがあると思ったからです。

今回は特に伊藤計畫が自身で書き上げた『虐殺器官』と『ハーモニー』にスポットを当て感じたことを書き連ねていきます。

 


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物語を考察することで想像力は広がる

「世界にはこんなに面白いことがあるんだよ、こういう世界を想像することで、自分たちの世界について色々思いを馳せるのは面白いことなんだよ」

『伊藤計畫録Ⅰ』にて紹介されている伊藤計畫がこの世に残した言葉。この言葉がSF文学に関してとても重要な示唆を含んでいるように私は思います。

もしかしたらこんなこと当たり前だと思う人もいると思いますが、当時、純文学やミステリーにしか興味を示さなかった私からすると、正直SF小説は作者の想像を垂れ流すだけの文字列としか思っていませんでした。

伊藤計畫を読破した直後の、頭をガツンと叩かれたようとはこのことか!!と今となっては恥ずかしいことです…

 

 

真っ先に思い浮かんだドラえもんの存在

ドラえもんといえば日本人の10割弱が知っている藤子不二雄の描く、未来からやってきた自称猫型ロボットとドジっ子眼鏡少年が主人公の、日本で最も有名なSF漫画の金字塔ともいうべきものですね。未来からやってきたドラえもんが出す不思議な道具を使う物語は老若男女問わず楽しめる作品です。

なぜ伊藤計畫作品を読んでドラえもんが思い浮かんだか。それは、既にある現実だけに目を向けて自分の思考に「枠」を形成してしまうのではなく、仮想世界に思いをはせることで自分の中の世界は広がりを見せていく。このことがドラえもんを楽しく見ることができる根源にあるものと同じだと、私は感じたからです。

 

先に書いた現実と違う世界を想像して思いを馳せ、自身の想像力が拡張されることで楽しめる作品になっていると思いました。

 

 

 

SFに思いをはせることは、文学に通ずる

 

私は純文学の機能の1つは、他人を認識する際に外見・レッテルだけで判断するのではなく、相手側の背景にどんな物語があるのか汲み取ることが必要であるという示唆だと考えています。そのためには、相手側のバックグラウンドに想像力を膨らまし自分以外の価値観が存在することを理解し共感するというタスクが課されることになります。その力を養うのは文学の役目であると本を読み始めてから考えるようになりました。

純文学が自分以外の人間の心情に思いをはせるのに対し、SF(ここでは伊藤計劃作品を想定)は自分とは違う世界のことに思いを馳せています。この二つの共通点は自分だけをブラッシュアップするだけでは気づくことができない暗示を、外部のフィルターを介して自分の意識できるところまで落とし込みができることだと感じています。構造的には同じ形で自身の想像力を膨らませていくことができるこの在り方は大変衝撃的なものでした。

そして伊藤計劃の著書は自身の描きたい主張と物語のディテールを、分かりやすくつなぎ合わせることができたためSFのなかで『伊藤計劃後の世界』などが書かれるほど影響を与えたターニングポイントとなったのかもしれません。

 

SFという現代とは全く違う仮想未来から、こんなにも人の幸せや理性・非理性を考えさせれれるとは思ってもいませんでした。私たち個々人の意識は・非理性は本当に必要なのか、もしくは不必要なのか。現実に準拠していないからこそ、私たちはその想像の幅を広げられるのかもしれないですね。