中途半端に哲学好きな社会不適合者のブログ

色んなことを思いながら生きている著者が日々のことを。。。

飛込み営業するなら喫茶店で勉強したい

大手金融関係の会社に入社して2か月目。新規開拓のために飛込み営業研修が始まりました。中小企業を中心とした法人営業が始まります。
その時の状況を振り返りながら、飛込み営業は意味のある行為なのかを考えていこうと思います。

飛込み営業をさせる会社の意図
説明会・研修期間で「うちは1年目は飛込み営業の研修があるよ。でもそのあとはほとんど飛込営業はないから。」
と聞かされていた入社直後。ついに始まった新人からしたら地獄とも感じる期間。会社側はどんな意図をもって、飛込み営業をさせるのでしょうか。
会社の方針・人事・上司から聞いた方針から下記のものがあると考えます。

①新入社員の度胸をつけるため
②大企業となった背景には先人が培った飛込み営業があり、それは大変なものだったと新人に伝える意図
③収益を生む現営業社員の時間を新人に割くのは無駄
④時代錯誤の飛込み営業でも契約まで漕ぎ着けるラッキーケースがある

①②は人事、役員が新人へこの意図があることを仄めかしていました。
ですが本当の根底にあるのは③と④でしょう。
要するに一応の新人養成の体をとりながら、それほどコストをかけずに営業社員の育成・あわよくば会社の利益へのプラスを目的としているのではないでしょうか。
特に④などは、実感ベースで100件訪問して1件のような低打率にはなりますが、私のようにやる気のない営業でもけいやくがとれたりします。

飛び込み営業は無意味
入社2ヶ月目から今まで飛び込み営業をやってきた私の結論は「半端な知識しか持たない新入社員の飛び込み営業は無意味」というところに落ち着いています。
(飛び込み営業は最初の半年間だけと聞かされていましたが、この記事を書いている翌年2月現在も飛び込み営業は続いています。社会は嘘と欺瞞に溢れているのが知れて良い経験になりました。死)
1年弱しかやってないぺーぺーが何言ってやがると思う方も少なからずいるでしょう。
しかしこれだけ情報が溢れている社会で飛び込み営業の存在意義の方に疑問を感じます。

だって自分が本当に必要な商品・サービスだったらネットで調べるでしょう?そこで比較検討も行うでしょ?

確かに昔は情報社会が発達していなかった背景もあり、(興味があるなしに関わらず)知らない情報が持ち込まれうる飛び込み営業に意義みたいなものがありました。

しかし、時代は変わり、いまや知りたい情報は簡単にアクセスできるネット上に溢れかえっています。そんな状況で「半端な知識しか持たない突然の来訪者」を誰が必要とするんでしょう?

自分の家にノンアポで知らない人がやってきたら警戒して居留守なんかも使ったりしますよね。
気が変わって対応してみたら、この商品買いませんかとその場で他社と比較検討できないものを売り付けようとしてくる。
はっきりいって迷惑行為に他ならないと思うのです。

労働生産性の評価が重視されてきた昨今において、貴重な労力と賃金をどう使えばいいのか飛び込み営業する時間で考えさせればいいのにと思います。

入社1年目。営業職を退社する今思うこと。

私は新卒入社した会社を来月の3月いっぱいで退職する予定となっています。
日本の大手企業に属する会社に入社したものの、何故退職するに至ったのかここで振り返っていこうと思います。

就活期
私は金融分野の会社に入社した絞って就職活動をしていました。理由は、ヒト・モノ・カネで回っている社会基盤の中でカネの部分が社会に与える影響が大きいと考えたからです。

というのが表向きな理由。
本当は、①シンプルにお金が好きだったこと②金融の会社にいけば自分の今後の資産形成の勉強が無料できる③色んな業種の人の話を聞く機会がある

特に③の理由が一番強かったように思います。

要するに、何もやりたいことなんかないからとりあえず潰しの効きそうな金融に入っとけばいいんじゃねー?その中で自分の本当にやりたいことを探していけばいいよねー
という短絡的な理由です。本当に何も考えていないアホです。

そして所謂、大企業という分野に属する会社の内定を頂いたのが今の会社です。
名前を言えば誰もが耳にしたことがあるような会社です。

そして入社。
入ってみれば自分がどれだけ甘い考えを持っていたのか知ることになりました。

合同研修期間を終え関東圏の部署に配属になりました。
そこで待っていたのは、就活期及び研修期に全く聞かされていなかった仕事をする部署でした。
詳しくは言えませんが、特定の業種を専門として営業をかけていく部署へ配属となったのです。

そりゃ、自分のやりたい仕事なんかほぼほぼ就けないのは覚悟していました。
(そんな説明1つも聞いてないんだが…)
説明会で全く聞かされていない仕事をしなければならない状況など想像もしていません。

そしてなにより、特定の業種を担当することで“色んな業種の人の話を聞く”という目的が早々に失われてしまいました。

とはいえ、金融は異動の多い職種です。何の気なしに先輩社員にお話を聞いてみます

私「金融って異動多いんで、“多業種に関わる”仕事に変わったりしますよねー?」
先輩「この部署に配属されたらずっと“特定業種”を定年までやるのが普通だよー。おれもそうだしー。」

なん…だと…
配属されてすぐにそんな事を聞かされモチベーションはものすごい下がります。
自分の軸と思っていた多業種と関わることができるメリットが享受されないのが確定したわけですから。
真綿の縄を首にかけたのは思えばこの時だったのでしょう。ここから自分の首をジワジワと絞めていくことになります。

ここから下に関してはまた別の機会に書いていこうと思います。

旧態依然とした日本企業
パワハラセクハラ当たり前
長時間労働。生産性皆無。
日本が衰退。それでもよくね?


営業とは詐欺まがい?

営業職としての入社でまず覚えるのは自社商材のことです。この時は必死で覚えましたとも。
そして段々業界のことを知っていく…
あれ?ウチの商材って時代遅れじゃないですか…?
これをこの値段設定にするって情報弱者しか買わなくないですか…?
日々疑問は増えていく毎日です。そんな商材にももちろんノルマが課されて

伊藤計畫PROJECT3作品を見終わって思ったこと

初めての記事です!

伊藤計畫PROJECT“屍者の帝国”・“ハーモニー”、“虐殺器官”の3作品を、原作及び映像で見たことで今思うことを記録に残します。34歳という若さで亡くなった伊藤計畫がこの世の中をどう感じていたのか。それを考察することで何か見えてくるものがあると思ったからです。

今回は特に伊藤計畫が自身で書き上げた『虐殺器官』と『ハーモニー』にスポットを当て感じたことを書き連ねていきます。

 


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物語を考察することで想像力は広がる

「世界にはこんなに面白いことがあるんだよ、こういう世界を想像することで、自分たちの世界について色々思いを馳せるのは面白いことなんだよ」

『伊藤計畫録Ⅰ』にて紹介されている伊藤計畫がこの世に残した言葉。この言葉がSF文学に関してとても重要な示唆を含んでいるように私は思います。

もしかしたらこんなこと当たり前だと思う人もいると思いますが、当時、純文学やミステリーにしか興味を示さなかった私からすると、正直SF小説は作者の想像を垂れ流すだけの文字列としか思っていませんでした。

伊藤計畫を読破した直後の、頭をガツンと叩かれたようとはこのことか!!と今となっては恥ずかしいことです…

 

 

真っ先に思い浮かんだドラえもんの存在

ドラえもんといえば日本人の10割弱が知っている藤子不二雄の描く、未来からやってきた自称猫型ロボットとドジっ子眼鏡少年が主人公の、日本で最も有名なSF漫画の金字塔ともいうべきものですね。未来からやってきたドラえもんが出す不思議な道具を使う物語は老若男女問わず楽しめる作品です。

なぜ伊藤計畫作品を読んでドラえもんが思い浮かんだか。それは、既にある現実だけに目を向けて自分の思考に「枠」を形成してしまうのではなく、仮想世界に思いをはせることで自分の中の世界は広がりを見せていく。このことがドラえもんを楽しく見ることができる根源にあるものと同じだと、私は感じたからです。

 

先に書いた現実と違う世界を想像して思いを馳せ、自身の想像力が拡張されることで楽しめる作品になっていると思いました。

 

 

 

SFに思いをはせることは、文学に通ずる

 

私は純文学の機能の1つは、他人を認識する際に外見・レッテルだけで判断するのではなく、相手側の背景にどんな物語があるのか汲み取ることが必要であるという示唆だと考えています。そのためには、相手側のバックグラウンドに想像力を膨らまし自分以外の価値観が存在することを理解し共感するというタスクが課されることになります。その力を養うのは文学の役目であると本を読み始めてから考えるようになりました。

純文学が自分以外の人間の心情に思いをはせるのに対し、SF(ここでは伊藤計劃作品を想定)は自分とは違う世界のことに思いを馳せています。この二つの共通点は自分だけをブラッシュアップするだけでは気づくことができない暗示を、外部のフィルターを介して自分の意識できるところまで落とし込みができることだと感じています。構造的には同じ形で自身の想像力を膨らませていくことができるこの在り方は大変衝撃的なものでした。

そして伊藤計劃の著書は自身の描きたい主張と物語のディテールを、分かりやすくつなぎ合わせることができたためSFのなかで『伊藤計劃後の世界』などが書かれるほど影響を与えたターニングポイントとなったのかもしれません。

 

SFという現代とは全く違う仮想未来から、こんなにも人の幸せや理性・非理性を考えさせれれるとは思ってもいませんでした。私たち個々人の意識は・非理性は本当に必要なのか、もしくは不必要なのか。現実に準拠していないからこそ、私たちはその想像の幅を広げられるのかもしれないですね。